ごみっと・SUN64号

ごみゼロ実現への一歩目はリサイクル広場から
小山田ごみ問題を考える会代表        .
元ごみゼロ市民会議委員 小林 美和



ごみゼロ実現への一歩目はリサイクル広場から
 ごみを持ち込んで資源にする広場、それがリサイクル広場。
主として10品目(金属類・陶磁器・保冷剤・ペットボトルの蓋・紙容器・パン袋の止め具・コルク・洗剤の計量スプーン・カセット・ビデオテープ)を市民に直接持ち込んでもらい、重量に応じてポイントを付ける。

 同時に空き缶・ペットボトルの回収機を設置しました。これにもポイントが付く。
『リサイクル広場まちだ』(以後『広場』)と題したこの実証実験は、2007年6月23日から8月19日まで金・土・日の25日間、町田市リサイクル文化センターのエントランスホールで開催され、3,684人の市民が来場し、『広場』の当番として延べ310人(ボランティア市民、市民委員、サポーター職員、ごみ減量課職員、市長も!)参加した。

 本来なら、焼却炉に行くはずのごみ、総重量で13,222sが市民の手で資源として活かされたのだ。

ここに来ると気持ちがいいの
 ごみを持参し、かつ、ボランティアスタッフとして参加してくれた女性の「ここに来ると気持ちがいいの。ごみを集積所に出す時、いつも罪悪感があってね。
もったいないなぁーって、私だけじゃないと思うよ。だけどここに持ってくると、資源化されるからすっきりするの」という話は印象的だ。

 「ごみを何とかして減らしたい。焼却されている物の中から、一つでも二つでも資源化できる品目を取り出したい」という市民委員の思いと
「ごみにするにはもったいない。でも使わないから、いつかはごみとして捨てなきゃいけない」という市民の思いがうまく結びついた。

努力した人が報われるシステムとしてポイントを付ける
 きれいな状態で持ち込まれたものは、そのまま資源として生まれ変わる。ごみを集めているのではないから、汚れたものは持ち帰ってもらう。

 汚れたものを資源化するには手間がかかるから、きれいにして資源として持ち込んでもらう。市民のそうした行動そのものを評価する場所、それが『広場』。
だからこそ、努力した人が報われるシステムとしてポイントを付けることにしたのだ。

元の素材に戻せるものは戻したい
 鉄は鉄に、紙パックは紙の材料に、陶磁器は粉にして新しい粘土と混ぜてまた陶磁器に…等々。資源として引き取ってくれる業者に渡される。

 「元の素材に戻せるものは戻したい。そしてもう一度製品とならないか…」との強い思いがあった。陶磁器は粉にして新しい粘土と混ぜてまた、新しい陶磁器となる。
プラスチックの部分や金属をはずし、材質の違うコレール食器を除いて集めた。
その後の詳しい調査によると、確かな技術はあるものの、需要が少ないために実際にはその多くは土や砂の代わりに路盤材や土中材となっていることが分かった。

 リサイクル(再利用)する前の段階の、リデュース(発生抑制)・リユース(再使用)にはほとんど手立てがとられない中、自治体と市民は一生懸命リサイクルに取り組んできたが、そのリサイクルも、本来の再利用とは程遠い現実が見えてきた。

分別してもほとんどが燃やされている
 燃えるごみ、燃えないごみと一生懸命分別しても、現状ではそのほとんどが燃やされている。
容器包装リサイクル法にのっても結局は、高炉の還元剤として燃やされてしまう。

 今すぐに、燃やすことをやめることはできない。けれども、少しでも燃やすものから、資源になるものを取り出して、いい状態で資源化していく…。

 多くの市民も行政も「ごみは出来るだけ早く自分の目の前から消してしまいたい」と思っている。この意識を変えるためには、まず「ごみを作らない・燃やさない・埋め立てない」と決意するしかないと強く思う。どこかにごみを持っていっても問題は何も解決しない。
私たちは、第三の道を選んだ。誰かに任せるのではなく、自分たちの手で触りながら現状をきちんと知り、考え、行動して、ごみを資源に変えていく道を。

 どこで、どのように資源化されるのか、なぜ資源化できないのかまで考える、そして、今すぐ理想どうりいかなくとも、試行錯誤を重ねて、少しでもごみを減らし資源化し焼却や埋め立てを減らすことを考え行動する場所…。

こんなことやってますコーナー
 市民委員の特技を生かした『こんなことやってますコーナー』では、レジ袋での紐作りや牛乳パックを使った物作り、不要になった傘でエコバックを作る実演をし、来場した市民との会話は途切れることがなかった。
また、持ち込まれたものの中にはまだまだ十分に使用できるものも多く『くるくるコーナー』(欲しい人が自由に持ち帰ることのできるコーナー)をつくったところ大好評!
「これも資源化できないか」と薬のカプセルや、粉ミルクの軽量スプーン、缶のふた、ホッチキスの針…といったさまざまなものが寄せられた。

 実験中、『広場』は資源を分けるだけではなく、楽しみながら、市民と市民が交流しつついろいろなことを考えていく場所へとどんどん進化していったのだった。

市民と行政との協働の作業が今、始まろうとしている
 1997年4月10日の朝日新聞の記事は、今も忘れることができない。
「リサイクルセンターの煙突から都内ワースト2のダイオキシンが出ていた!」このニュースで地元は大さわぎとなっていく。

 当時、日の出町の谷戸沢処分場の汚水もれの騒ぎを横目に「日の出は気の毒。何とかできないのか」と考えたものの
「日の出に関わることは即行動すること。あなたにそんな決意があるの?」と友人に言われしりごみしていた私の上に、同じ火の粉が降りかかってきた。
あわせて、リサイクルセンターすぐそばの町田市ごみ最終処分場(埋立地)の嵩上げ計画も持ちあがり、隣接している小山田桜台団地住民にとってはダブルパンチだった。

 それから11年…、あっという間の11年だった。幼かった子どもたちも成人した。夢中だった。
「苦しいなぁ…」とは思ったものの「もうやめよう」とは一度も考えなかった。
私たちには、強い味方がどんどん出来ていった。その中でも最強の一人が、渋谷謙三さん(ごみゼロ市民会議のアドバイザーの一人)だ。渋谷さんの知恵に何度も助けられた。
広瀬立成さんが加わり、そしてなんといっても石阪丈一さんが市長になったことは大きかった。

 この便りが、読者のみなさんに届く頃には、町田市ではリサイクル広場が再びよみがえっている。
(どうぞ皆さん尋ねてきてください。お待ちしています)


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