市民ごみ大学セミナー’99 実施報告


第五回 どうつくる!循環型社会への法制度
国の法律と自治体のごみ処理
開催日 2000年 1月29日
 

講 演
◇ 樋渡 俊一さん (弁護士)

● はじめに
 弁護士になって18年間、公害や環境問題に関心を持ち続け、この12年はごみ問題にも関わってきました。12年前を振り返るとバブル経済の頃で急激に増加するごみが大きな問題になり、大きな法律の改正がされました。現在、深刻な環境問題を踏まえた改正がされつつあります。
 それがどんな意味を持つかを、昨年、日弁連が開いたシンポジュウム『資源循環型社会を阻むものはなにか』をもとに皆さんと共に考えたいと思います。

● 循環型社会とはどんな社会でしょうか
 循環型社会は『大量生産、大量消費、大量廃棄社会』が深刻な環境問題を引き起こし、これに対比する社会として唱えられたものであります。
 この言葉は、はやり言葉というか、便利な言葉で昨日の小渕総理の施政方針演説でも『循環型社会』が説かれ、前回の総選挙でも公約に掲げて立候補した人が半数を超えました。『大量生産』システムは産業革命に端を発し発達してきました。
20世紀の始め『T型フォード』の量産に成功し、大量生産により安価に車が供給され、一般市民が多量の車を使うようになりました。
『大量生産、大量消費、大量廃棄社会』の幕開けと言われています。
 日本では20世紀の後半、池田内閣の所得倍増計画の成功により大量生産社会、同時に大衆社会が到来しました。『大量生産、大量消費、大量廃棄社会』は今の経済システムそのものであり、これからの脱却は非常に難しいと思います。
政治家が公約に掲げ「資源循環型社会を実現する」と言うからにはそれなりの覚悟が必要です。一方、不況になりますと「物が売れないでどうする?」となってしまいます。
 暫くは『大量生産、大量消費、大量リサイクル』を進めていく事になりますが、リサイクルにも沢山の資源とエネルギーが必要になり、限界があると思います。

 また、これは南北問題として資源やエネルギーの公平な使用の観点からも大切であり、発展途上国の安い労働コストによって作られた資源や製品が多量に日本に輸入されている限り、国内でのリサイクル・リユースシステムの構築には困難を伴います。
 最終的には経済が物の消費に頼らない、情報・サービスなど形のない物の消費に変えて行く方向であると思いますが、本当に環境に負荷を与えないのだろうか?多くの人にとって幸せな社会なのだろうか?ここが良く分からないのです。

● 現行の法体系と問題
 『資源循環型社会』の実現には大変難しい問題があり一気に実現できませんが、「少しでも近づける為にどの様な法体系が必要か」が今日のテーマです。先ず、現在の日本の法体系の仕組みを見て行きます。
 ごみに関連する法律は沢山あります。よく出てくるのが『廃棄物処理法』です。他に『リサイクル法、容器リサイクル法、家電リサイクル法』、『環境基本法』があります。
複雑で沢山あり、その上各法律の関連が難しく一般の人だけでなく弁護士にさえ正確に分かっている人が何人いるのか疑問を感ずる程です。
一口に言えば、法律がアクロバットをしている状態で、複雑に絡み合っています。

 複雑になっている主な原因は多くの省庁が利害関係を持っていて、省庁間の縄張り争いの結果です。新しい法律を作るとき厚生、通産、環境庁が主で時には、農水、大蔵が割り込んできたり、これに族議員が利権を求めて絡んでバトルを演じ、まさに戦国時代の様相を呈しています。
 環境庁の『環境基本法』はごみに関しては良く出来た法律であり、先ず発生抑制、次がリユース、リサイクル最後に適正処理となっている。ところが、強い力を持った通産がリサイクル関連、厚生省が廃棄物を担当することで手打ちが行われ、環境庁が排除され、『環境基本法』でうたわれている理念が後退してしまいました。

 『廃棄物処理法』を歴史的に見ると明治時代の『汚物清掃法』に始まり、戦後間もなくの1954年の『清掃法』、1970年に公害立法の一つとして『廃棄物処理法』が成立しました。
1991年の法改正で発生抑制、リサイクルが精神上は盛り込まれましたが、「ごみが出てくるのだから何とかしなければ」と言う法律です。基本的には公衆衛生に立脚した法律で、市町村の責任となっています。

 『廃棄物処理法』では産業廃棄物が規定されました。これは事業活動に伴って排出される物の中で指定されたものを言い、排出者の責任となっています。しかしながら骨抜きになっていて処理業者に渡してしまうと責任はなくなるのです。
 『リサイクル法、容器リサイクル法、家電リサイクル法』は事業者の責任が極端に弱い法律です。この法律を考えるポイントは『事業者責任』にあると思います。

● 生産者責任の原則(拡大生産者責任・EPR)
 『リサイクル法』は1971年に成立しました。リサイクルは事業者の責任とせず「自由な市場に任せておけば、自然に進む」と言うのがこの法律の考え方です。缶に素材を表示しリサイクルしやすい手だてを講じ、紙などを作るとき古紙の利用率目標を設定すれば、売り買いする人が出てきてリサイクルが進むとしています。
 弁護士会の意見書「もっと事業者がリサイクルに関わるべきではないか」を持って行きました。通産省の人は「消費者を甘やかすだけです。
消費者はどんどん捨てるだけだ、何故事業者がリサイクルの義務を負わなければならないのですか?」そんなことをしたら『憲法の22條、29條』の『営業の自由、財産権の保証』に反するとまで言っていました。

 それからわずか4年後には『容器包装リサイクル法』が出来、不十分ながら事業者の責任が盛り込まれました。ドイツのDSDシステムなどに刺激されて、世界の潮流に遅れない手だてとしてだと思います。
『家電リサイクル法』も同様で、日本では外国の制度を取り入れると称して言葉だけは持ってくるのですが、理念・内容を見事に差し替えてしまいます。この点で日本の官僚は天才的な能力を発揮するのです。グローバルスタンダードと言いながら、「日本には日本のシステムがある」となります。

 拡大生産者責任とは生産者に一次的な責任を負わせれば、リサイクル・処分するコストまで考慮して物を作るようになり、リサイクルにかかるコストは製品の価格に上乗せされるので、消費者はリサイクルや廃棄処分にコストが掛かる製品は買わなくなるのです。
必要なコストは最終的に価格に反映し消費者が負担する事によって消費者の責任が果たされるのです。けっして消費者を甘やかしたり、事業者に過度の負担をさせるのではありません。これを一番取り入れているのがドイツのDSDです。

● 資源循環型社会を実現するためには
 資源循環型社会を実現するためには、生産者責任の原則確立、経済手法(環境税・デポジット等)の導入、市民の権利(知る権利・参画する権利)、地域の自主性の尊重(地方自治体の権限)、教育・啓蒙などがバランス良く実現しなければなりません。
 市民の知る権利に関しては民主主義の根幹に関わる問題でもあります。最近成立した情報公開法により行政の情報は今までより多く知ることが出来るようになりました。
事業者の持っている情報は民間人の情報でプライバシーがあり、営業の自由があり知ることは難しかったのですが、環境の分野では事業者の秘密はかなり制限されてきます。

 改正された『廃棄物処理法』では廃棄物処理施設については利害のある住民はデータの開示を求める事が出来るようになりました。『PRTR法』では市民が業者の情報を開示をさせることが出来る方向にあります。
 また、容器包装のリサイクルに東京都が『東京ルール』を作って実施しようと試みましたが、中央官庁の干渉により実現できませんでした。中央官庁の官僚だけでよい制度を作ることは出来なく、その地域にあった制度を地方自治体が市民の参加を得て作ることが大事です。


質 疑 応 答
上記講演を元にして幅広い内容の質疑が活発に行われました。前回のごみ大学で別所さんが自治体が条例でプラスチックを「処理困難物に指定」との提案があり、これに関しても取り上げられました。ファイル容量も大きくなりますのでここでは省略させていただき、講演録で紹介したいと思います。

● 講演を聴いて
 21世紀は物質的な豊かさを求めでひた走り、その代償として内面的な面を置き忘れてきた世紀ではなかったのではないか。
その結果、仲間である他の生物の生存を著しく脅かし多くの種を絶滅にまで追い込んでしまった。そして地球の環境にまで重大な変化を与え、これが人間の存在すら危ない状態になりつつあると懸念されている。

 一方、環境問題以外は人間にとって良い社会であろうか。
最近の子供達に現れた顕著な問題、『生きていく目標が持てない』『生きていく力の喪失』『自己中心的な振る舞いしかできない』等々、内面的な充実を忘れ、物質的な豊かさを求めてきた、社会の病理であるように思えてならない。これを教育問題と捉え『教育革命』が言われているが、問題の本質からはずれた発想であるように思える。
 社会のリーダーの立場にいる人も薄々このことに気付いているが、過去の発想からの行動を改める勇気を持てず、気付かない振りをして、不況対策と称して物の大量消費を復活させようと必死に振る舞っている。
今の不景気は一般市民が従来の消費パターンでは「自分の生活が守れず、真の満足を得られない」と気付いての行動でないかとも思う。

 『足を知る』という言葉が重要な意味を持ち、心が満たされた一生を送るための方法を皆が追求することしか問題の解決が出来ないと思う次第である。言うは易く実現には時間が掛かる。
先ず買う物の量を5%、10%と少しずつ少なくしようではないか。慣れてしまえば50%にしても不便でも苦痛でもなく、それが当たり前となり、余った時間と心を内面の充実に向けていこうではないか!

 一部の事業者の圧力やこれに応える政治家・中央官僚がどんなに知恵を絞ってもこの作戦には抗する手段を持たないであろう。
問題を解決する大切な鍵は市民が持っているのだと改めて感じた講演であった。


熱弁を振るわれる 樋渡 俊一さん


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